漫才の教科書をつくりたい

メインは、若手芸人が、その4分間に人生をかける、年に一度の祭典『M-1』に見出せる「おもろい」を分析していきます。

漫才の笑いと日常の笑い

急に「すべらない話をして!」と言われても、笑いを取れる一般人なんてほとんどいない。それは、「これからおもしろい何かが起こる」と予想(期待)してしまうからである。笑いのハードルが高いということだ。

 

漫才の笑いと、「すべらない話して!」の笑いはほぼ同義である。漫才を見る人は、「漫才は面白いもの」という固定観念のもと、そのネタを見ているため、そもそものハードルが高い。

 

笑いは、予想と異なった場合に起こる。そしてすべらない話で笑いを取れる人は、人々の予想を超えるもの(時には誇張や嘘も混ざっているが)を言うのである。逆に、全て予想通りの話には「退屈」というマイナスな印象を与えられるので「笑い」は絶対に起こらない。そして、「笑い」を生み出そうと考えた場合、「退屈」という観点から考えるのが良い。

 

テレビのバラエティやYouTubeを観るときや漫画を読むとき、退屈“だから”観る・読む人が多いだろう。娯楽とは退屈をしのぐために存在する。しかし、そのコンテンツの中にも「退屈」は生じてしまう。そのため、「情報」と「受け手の好奇心」を結びつけて考える必要がある。人は知らず知らずのうちに情報を取り入れてしまう。世の中に溢れる情報には絶対に需要は存在し、需要の差も必ず存在する。

 

これで「笑い」の土壌を作ったことになる。この土壌が「笑いがあっても良い」場合にだけ、笑いを起こせばいい。笑いにも需要がある。笑いを引き起こす一番手っ取り早い方法は、笑い声を入れることだ(これは演者の笑い声であっても良い)。お笑い芸人が面白い理由は、よく笑うからである。受け手が面白いと感じた時に、コンテンツの中でも笑いが起きていると、そこには「共感」が存在し、人々を惹きつける。その回数が多いほどファンになるのだろう。

 

そして娯楽の笑いは「日常の笑い」に属する。それほど漫才は特殊な存在なのである。

 

まとめると笑いを生み出すには、笑いが適した土壌で受け手の予想を超えたことを発生させ、コンテンツ内で笑い声を生み出すことである。

しかし、笑い声を使って笑いを生み出すことは邪道な笑いなのである。漫才は人々の予想を超えることだけで笑いを生み出さなくてはならない。